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【置賜偉人伝⑬】千喜良英之助 (教育者)

星先生の『置賜偉人伝!!!』

第13回:千喜良英之助 (教育者)

 

大ヒット上映中の「鬼滅の刃」の大正時代。

そこにはに勝るとも劣らない厳格で、かつ全集中の呼吸で教育を実践した人物がおりました。
今回はその明治・大正・昭和の激動の時代を生き抜き、人を愛惜した真のヒューマニストであった米沢興譲館第17代校長の千喜良先生をご紹介いたします。
米沢の芳泉町に生まれ、父は関根小学校の教員、祖父は山上村(現在の米沢市山上地区)の村長でありました。
幼い時の体験を通し、貧困な農村救済の使命感に燃え、
「俺は教育者になる。そして貧乏な農民の味方になるような人をたくさん育成したい。」
と言うようになり、将来は教師になろうと考えておりました。
米沢中学校(現在の米沢興譲館高校)卒業後、先輩である童謡作家の浜田光介の借家を借りて、予備校に通い、翌年、東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学しました。
卒業後、一年志願兵として山形の歩兵第32連隊に入隊し、任期が終わると、長野県の大町中学校にて初めて教鞭をとることになりました。
しかし、そこでの教育に何か足りないと感じ、東京師範学校の専攻科修身教育家(現在の大学院)に入り、教育哲学を学びました。
その後、30歳の若さで、岩手県の小学校の校長となりました。当時の小学校の経営体制は校長独裁制で、校長がその学校のすべての実権を握っておりましたが、千喜良先生は教師で構成する「委員会制」を提唱、実践しました。当時の教育界においてはまさに革命的でした。
その他にも、体育の授業に音楽を取り入れたり、当時では珍しい男女混合学級を断行したり、国旗掲揚塔を設置したりと次々に新しい風を教育界に吹き込ませました。
しかし、この情熱的な近代的教育実践が、当時の教育行政者たちには理解されず、沖縄に左遷されてしまいました。
沖縄で教鞭をとっているときも、逆境に負けず、修学旅行に参加できなかった生徒を夏休みを利用して自ら引率し連れて行ったり、哲学の講義を適切な具体例をあげながら分かりやすく教えたり、自らの結婚体験談を語ったりと、当時では珍しい師弟一体の教育を実践しておりました。
厳格な反面、情愛細やかなところもあり、沖縄時代も岩手時代と同様に、生徒や教師からは圧倒的な人望がありました。
そして母校の米沢興譲館の校長として迎え入れられたのです。
興譲の精神を千喜良先生は「何者をも受け入れて育てていくもの」と解釈しております。
「われら興譲の精神を誰かに向かって誇ろうとは思わぬ。またこの精神を誰かに強いようとも思わぬ。ただわれらはこの精神が人々の持つ様々な立場や人生観を超えて、永遠なるものとしてこれを信じ、これを守ろうと思うものである。」
千喜良先生は興譲の精神をこう説きました。
先生の教えを受け継ぎ、置賜から多数の偉人たちがこれからも生まれてくるのですね。

 

 

 

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